コブラのまあそういわれるとそうなんだがこりゃまいったなぁ!の画像がこんなにも ..


同日、午後6時20分。
車道を埋め尽くすヘッドライトの眩しさに、京は思わず手をかざした。そのせいである時点から見ないようにしていた腕時計の針が視界に入る。冬の日没は早い。夜の帳が下りようとしているのに街は、京の視界に映る全ての景色は昼間以上に明るく、色とりどりに輝いていた。街路樹の全てが青白く発行している。待ち合わせをするカップルや家族、学生グループ、それぞれが持つモバイルディスプレイの明かりさえも、イルミネーションのようにところどころで光っては消えた。
『こちら城戸。現在勝山周辺、渋滞にはまってます』
『荒木だ。城戸、郊外に抜けろ。車は捨てるな』
『了解、港湾区方面に流します』
『シンです。管轄駅構内、情報全部流したんで捜索範囲から外してください』
『青山です! トーワタクシーが捜索協力してくれるそうです! 必要ならセイバーズの名前で使ってください』
『よぉし! 助かる、青山でかした!』
無線のチャンネルを合わせた瞬間、堰を切ったように仲間のやりとりと情報があふれ出た。京は走りながらそれを聞いた。
『浦島、聞いてるか。現在地どこだ』
歩道の人混みをかきわけている最中に、荒木からの呼びかけ。バス停に並ぶサラリーマンたちに混ざって、京は周囲を一瞥した。
「乙木の、中央通りです」
『分かった。お前はそのまま心当たりを片っ端からあたれ』
「……了解」
バスが到着し、帰路につく人々は次々に乗り込んでいく。その列とバスの乗客にも視線を走らせた。この半日だけで、どれだけの人の顔を確認しただろう。そのどれもが京と目が合うと不審そうな眼差しを惜しげもなく向けてくる。しかしそれも一瞬だ。
京は再び走りだした。吐く息が白い。おそらくとんでもなく気温が低いのだろう、そういえば道行く人は皆コートにマフラー姿だ。自分はコートはおろか、スーツのジャケットさえ着ていない。左腕に抱えたままのくしゃくしゃのジャケットを横目に見て、着るべきかどうか一瞬考えたが結局そのままにした。息は白いが、背中は汗でぐっしょり濡れている。信号待ちで立ち止まる度に、周囲の視線が集まるのが分かった。
笑いがこみあげる。「滑稽」という言葉はこういうときに使うんだろうなだとか、割とくだらない思考がぐるぐると回っていた。
「ないんだよな、心当たりとか言われても……」
金熊が、荒木が、保安課の皆が期待しているような特別な心当たりなど、京にはなかった。白姫小雪にとって、自分は職場の先輩でありバディであり同じスプラウトであり──それだけだ。出会ってからこうなるまで、それ以上と呼べるものは何もなかった。だからこういうとき、彼女が行きそうな場所が何一つ思い浮かばない。
(ないのかよ……! あれだけ一緒に居て……!)
記憶をまさぐった。初めて会った瞬間から、昨日別れるまでの小雪との全ての記憶を。よぎっては消える彼女の表情は、そのどれもがとんでもなく顰め面だ。「気持ち悪っ」だとか「うざっ」だとかの辛辣な言葉を平気で吐いて、極めつけに豪快に舌打ちまでかましてくれる。そんなやりとりばかりを重ねてきた。好きだと言ったら、馬鹿じゃないのと返された。──割と真剣だったのに。
「もうっ! どうしていつも笑って誤魔化そうとするの!? 全然真剣さが伝わってこない! ちゃんと誤ってよ!」
突如思考に割り込んできた甲高い声に、今日はびくついて振り向いた。若い女性が、泣き声混じりにモバイルフォンを耳に押し当てていた。クリスマスの街中は悲喜こもごもだ。こういう日に喧嘩をするカップルもいれば家族もいる。別に珍しくもない光景だが、京は他人事に思えず何となく注視してしまった。
信号が青に変わる。人の流れに逆らって、京はそのまま立っていた。店のショーウィンドウに映し出された浦島京介は、中でポーズを決めるマネキンと同じように無表情だった。それでも気を奮い立たせて足を踏み出した刹那、くしゃくしゃのまま持ち歩いていた上着から微かな振動を感じた。と同時に、素っ気ない呼び出し音が鳴っているのも聞こえる。京は慌ててポケットから携帯を引きずりだした。ディスプレイには見慣れない番号が表示されている。どこかの公衆電話からのようだった。京はすぐさま通話ボタンを押した。
「……もし、もし」
相手の反応はない。微かな息遣いだけが受話器を通して耳元をかすめた。ただそれだけで、わけもなく確信した。
「小雪……!? だよな! 今どこに居る!? 」
受話器の向こうは無言だ。聞こえてくるのは周りの喧騒ばかりで、若者たちのはしゃぎ声や笑い声が京の苛立ちを煽った。交差点のオーロラビジョンも信号機の横断音楽も全てが耳触りだ。通話が切れていないことを確認しながら、京はありもしない静かな場所を求めて視線を走らせた。
「小雪だろ!? 切るなよ絶対!」
息を吸う、微かな音が聞こえる。意味は無いと知りながらも携帯を耳に押し付けた。
『……京』
消え入りそうな弱々しい声だった。が、それは確かに小雪の声だった。そしてその声は、京の焦燥を一気に駆りたてた。
『……助けて……』
京はもう一度ディスプレイを見た。見覚えのある局番だ、そう遠くない。管轄内か、そうでなくてもタクシーで行けない距離ではないはずだ。どうでもいい類推が巡る。自分で自分に苛立った。
小雪はそれきり一言も発さなかった。微かに受話器を握りしめる音だけが聞こえ、それは通話終了の合図のように思えた。年末まではまだ早いのに、スピーカーを通したカウントダウンが聞こえる。聞き覚えのあるラジオDJの声のような気がした。何かのイベント会場にでもいるのだろうか。
イベント会場──? そう思った瞬間に通話は途絶えた。後には京を嘲笑うように繰り返し機械音が鳴っているだけだ。今度こそ本当に自嘲した。
「……我ながら最低だよなぁ」
──心当たりは、あった。京しか知り得ない、小雪の居場所。
もう一度全速力で走った。吐く息だけは相変わらず雪のように白いが、寒さを感じている余裕は無かった。


反AI主張されても説得力がないと言われると、全然範囲の違う話なんだけどコブラさんのまあそういわれるとそうなんだがこりゃまいったなぁ!になる

踏切の遮断機が、人が来るのを待っていたかのように下りてきた。ひとところに立ち止まるという行為がどれくらいぶりか知れない、京は通せんぼされたところで両ひざに手をついて呼吸を整えた。その瞬間に溜まっていた汗がどっと流れてきたのが分かる。アスファルトの地面にひとつ、ふたつと滴が落ちた。
三両編成のこぢんまりとした電車が通り過ぎると、向こう岸で同じく踏切待ちをしていたサラリーマンと目があった。携帯電話片手に分かりやすく眉を潜めている。通話相手の部下が何かヘマをしでかしたか、あるいは家族が面倒事でも起こしたか、そういった類の不快を顕わにしていたがすぐにそのどちらでもないことが知れる。男は踏切が上がると同時に、京から充分に距離をとって通り過ぎて行った。なるほど、真冬にスーツで汗だくの男は到底まともな奴ではないというのが傍目からの評価らしい。
男の訝しげな視線は気にならなかったが、ある意味おかげ様で思い出したことがあった。随分長いこと、自分は携帯を確認していない。つまりホウレンソウを絶っている。自己嫌悪や体力の消耗も相まって、京は力なく携帯のディスプレイを確認した。それには一縷の望みも、少なからずたくしていた。
実際は保安課の面々からの着信が画面を埋めているだけだ。その中に小雪の名はない。
嘆息をひとつ。それから留守電の録音内容を確認すべく携帯を耳に押し当てた。シンをはじめ、誰もかれもが「一度帰社するように」という旨を告げて慌ただしく電話を切っている。数秒間、ディスプレイを凝視して京は踵を返した。朗報であろうが訃報であろうが情報は得ておきたいと思った。そんなことを今さらに思ったのだ。
そうして戻ったカンパニーのエントランスには「平常通り」とは程遠い異質な空気が漂っていた。一目で分かる、本社の人間が我が物顔でロビーを徘徊している。それも少数ではない。ある意味で敵陣の中にいるような居心地の悪さが場を支配していた。
ロビーに足を踏み入れた途端、視線が突き刺さる。それらをかいくぐって突き当たりのエレベーターを目指した。
「浦島っ。ばか、こっちだこっちっ」
意図的なウィスパーボイスがどこからともなく聞こえてきたかと思うと、受付カウンターの陰から生活安全課の主任が低い姿勢のまま躍り出てきた。そんなことをしなくても小柄な彼なら誰の目にとまるということもないのだが。
「5階は本社保安課で埋まってんだよ。役職持ちは全員そっちの対応でてんやわんやで……じゃない、お前、無線。せめて携帯には出ろよ、金熊さんが哀れでしょうがない」
「や、すいません。っていうか何で……」
「だからっ。上とはもう連絡とれないぞ、他部署は知らぬ存ぜぬで通していくことになってる。……白姫さんのセイブ命令が出たんだ、これも聞いてない、な?」
エントランス横、生活安全課に入ってすぐの待合用ソファになだれ込むように腰かける。京は渡された無線を握ったまま、ほとんど無意識に額に手をあてていた。
「展開早いなー……」
「でもないだろ、何時だと思ってんだ。お前らがもたつきすぎなんだよ。あ! どうもこんにちはー! そちらの番号をお取りになってお待ちくださいねー!」
生活課主任は突如立ち上がると、笑顔満開で来客対応にあたる。その豹変ぶりにびくついて、京はただただ目を丸くしていた。本社保安課が出張ってこようが、対応で上層部が全く機能しなかろうが、仲間内からセイブ対象が出ようが、ここ生活安全課はいつも通りの業務をこなすしかない。藤和の街に籍を置くスプラウトたちが、今日も様々な悩みや相談を抱えて列をつくっている。機械から次々と吐きだされる整理券の番号は、夕方のこの時点で300を超えていた。
「はあぁ? 婚姻届出すだけじゃだめなの?」
窓口に仲良く並んでいたカップルが、素っ頓狂な声をあげる。
「そうですね、保証人の用紙が別途必要でして……」
「保証人てさぁ、借金じゃないんだから」
「申し訳ありません、スプラウト同士の婚姻には必要な手続きですので……」
眉尻と頭を同時に下げる生活課職員。見慣れた光景だ。また別の窓口では中年女性が見るからにご立腹の様子で身を乗り出している。
「だからね!? ほんとにあんたたちは頭が悪いねぇ! 去年も同じこと言ったでしょうも、控えてないの!? ないわけないでしょ、責任者出しなさいよ!」
「失礼いたしました、至急確認いたしますのでっ。どうぞお掛けになってお待ちください」
「待ってるわよ! どんだけ待たせりゃ気が済むの、お役所気どりもいい加減にしなさいよ!」
こちらは立ち上がって直角に敬礼だ。どの窓口も何かしらの理由で頭を下げている。この流れが始業直後から就業間際まで延々と続く、それが生活安全課だ。クリスマスイブだろうが勿論お構いなし。当然、他部署発信のいざこざに巻き込まれてやる暇など彼らにはない。
京は黙って腰を上げた。
「浦島、金熊さんから伝言。『白姫さんの携帯は自宅』『但し周辺は本社が囲ってるから近づくな』『無線持ったら荒木主任に連絡』『出る前に水分補給』、それと、『何でもいいからお前が見つけろ』だそうだ。伝えたぞ? 過保護だな、金熊さんも」
生活課主任は京と自分が座っていたソファの位置を修正しながら、独りごとのように早口に告げた。京がどういった反応をしたのか、彼は特に気に留めなかった。顔をあげたときには京の姿はもうなかったし、遠ざかっていく足音が──その勢いが、生きていることを確認できただけで充分だ。
「忙しいのよ。俺たちのセイブ業務もさ」
今度は完全に独り言になった。フロアは彼の呟きを一切かき消すほど、喧騒にまみれている。ひっきりなしに開いて閉じるエントランスの自動ドアを尻目に、生活課主任はいつものように山積みにした資料を持ち上げた。

同日、午後2時。
『荒木だ。悪い報せが入ったぞ。白姫の奴、スプラウト反応が検索できないように端末ロックしていったらしいっ。豆塚に解除依頼中だが、はっきり言って当てにはならないな』
無線のスピーカーから荒木の疲れ切った声が、ハウリング音と共に響いた。これを聴いた者は、少なからずその場で奇声をあげたはずだ。その後入るであろう反論を遮るために、荒木は一層声を荒らげて続けた。
『とにかく、状況が変わった。全員一度カンパニーに戻ってくれ。浦島に、無線は?』
『つながってません、僕が伝えます』
淡々としたシンの声が割って入る。その後各自から「了解」の意を示す応答があっただけで、荒木の訃報を覆すような報告は何一つなされなかった。
藤和の街のことなら、警察より市役所職員より知り尽くしている。そういう自負と余裕が皆にあった。そしてそれは小雪にも言えることだということを皆が失念していた。藤和の街は無論のこと、ブレイクスプラウトに対してセイバーズが、とりわけ藤和支社保安課がどのような動きをとるかは手に取るように分かるはずである。
「盲点だったよなぁ……」
独りごちながら応接室のドアを開けたのは荒木。精魂果てたような様子で手近なソファーに座りこむ。保安課のドアではなくこちらを開けたのは、金熊からの事前の指示によるものだ。保安課には今、本社から事情聴取によこされた人間が少なくない人数出入りしている。金熊は午前中のほとんどを彼らの応対に費やしたらしい。
再びドアが開いた。汗ひとつかいていない城戸のお出ましだ。車での捜索なのだから仕方ないと言えばそうなのだが、つい恨みがかった視線を送ってしまう。
「進展は?」
「あったらもっと意気揚々と帰社しますよ。……追跡の件、スプラウト反応じゃなくて単純にGPSでは追えないんですか?」
「そんなもんとっくの昔に試したよっ。携帯なら白姫宅でおねんね中、課長と俺からの着信で履歴はとんでもないことになってんだろうな」
軽口をたたくも互いに目が笑っていないから不気味だ。荒木はふぐ口を作りながらソファーに上半身をうずめた。ふてくされたように思いきり横になって、尻ポケットからよれよれになった煙草を一本ぬきだす。
「……吸うんですか、ここまできて」
荒木が未だに煙草を身につけていたことにも驚いたが、それをあっさり咥えたのを見て城戸は目を丸くした。
「吸わねぇよっ。いいだろ、振りくらい」
やつあたりとしか思えない荒木の言い草に片眉をあげる城戸。静電気が走ったような空間、それも長くは続くかない。屋内とは思えないほどに全力で廊下を駆け抜ける足音が響く。それがドアの手前で途切れ、シンが息を切らせて入室してきた。
投げ出していた身体を起こし、荒木がぶっきらぼうに片手を挙げた。
「どうだった」
聞くまでもない確認を一応。
「っていうかすみません。京、出ないんですよね携帯。やってるうちに僕の方の充電が切れちゃって」
シンの方も答えるまでもないと判断して、荒木の質問を完全にスルーした。
「お~ま~え~ら~はぁぁぁ……」
荒木が奥歯を噛みながらわしわしと頭頂部を掻きむしる。いつになく分かりやすく苛立つ荒木に遠慮して、というわけではないがシンは座ろうとしなかった。珍しく汗などかいて、頬を伝うそれを無造作にぬぐっている。
次にドアを開けたのは、半日で四、五年分は一気に老けこんだと見える金熊だ。みちると共に両手にペットボトルの水を抱え、町内会のおじさんよろしく汗だくの連中に一本一本配って回った。
「……浦島は」
荒木が黙ってかぶりを振る。
「分かった。奴のことは放っておいていい、俺の方でなんとかしよう。……それより、申し訳ないが事態が深刻化した。三十分ほど前に白姫君へのセイブ命令が全社一斉通達された。これで彼女はまごうことなき“セイブ対象”だ。我々も今から“それ”を踏まえて動くことになる」
「……白姫をセイブしろ、という意味ですか」
「そうだ。分かりきったことを聞くな」
金熊は城戸の疑問を一蹴すると、開けただけだったペットボトルの水を煽るように飲んだ。皆それを見守るだけだ。普段なら間髪いれず響く歯切れの良い「了解」の一声はない。一気にペットボトル半量以上を空にした金熊、静まり返った応接室に彼のやけくそ気味の「ぷはぁ」という吐息だけが響いた。
「俺たち全員の責任だ。俺たちが事態と彼女の能力を甘く見た、結果こうなった。ただそれについて反省だの後悔だのを悠長にやってる暇はない、……セイブの意味だとかセイバーズの意義だとか、そういうのも後回しにしてくれ。とにかく、白姫君を見つけることが先決だ。……一刻も早く」
先導するはずの金熊の歯切れが悪いから、皆の沈痛な面持ちが抜けきれない。各々が唇を真一文字に結んで自分に言い聞かせるように何度か頷いた。ただし足取りは重い。黙っているとたった今「考えないように」と釘を刺された項目が頭の片隅をよぎる。よぎって、そのまま居座ろうと渦をまく。
シンだけが、ここへ入ってきたときと同じ機敏さで踵を返した。何を思ったか、荒木がその後を慌てて追った。おしゃぶりの役割しか果たさなかった煙草を、入口近くに屑かごに投げ入れる。
「シン」
エレベーターの到着を待っていたシンが半身だけ振り返る。
「お前、やれるか。白姫のセイブ」
「はい? そういうのは僕じゃなくて京に言うべきでしょ」
もっと言うならその手のおせっかいは荒木の柄ではないように思えた。が、それは喉元で留めておく。苦笑してさっさとエレベーターに乗り込むシン、荒木もそのまま同乗するようだったから「開」ボタンを押したまま待機した。
「お前だって白姫のバディだろ」
荒木は真顔で続ける。シンは一瞬面食らったような顔を見せたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。但しいつもより気持ち、唇の端を引きしめた。荒木の心遣いに敬意を払ってである。
「だから、早く見つけてやりたいと思ってます」
「だったら、いいんだ別に。悪かったな。つまらんことを聞いた」
柄にもないことは本人も承知していたようで、荒木は視線を泳がせた揚句に階数表示を凝視した。こちらの事情などお構いなしに、エレベーターは決まった速度で下がっていく。4階へ。3階へ。2階へ、着くころにシンは緩んでいたネクタイを締め直した。冷静でいなければならない、少なくとも自分は。
1階の表示ランプが灯ったところで目配せをして、シンと荒木は足早にロビーを横切った。

たレンズを生えてた樹木に投げ込んでおいたんだが……まあ、破壊されただろうな ..

金熊が5階に駆け上がってから数分、京はまだ身動きがとれずにいた。幸か不幸か、始業前の1階トイレは本当に人気が無い。金熊が出ていったきり、トレイのドアは全く以て開く気配を見せない。きっかけがなければ、いつまででもここで立ち尽くしていそうな気がする。
スプラウトは恐怖でバグるのさ──大神の、人をくったよなうすら笑いが蘇った。植え付けられた恐怖感で細胞のアップグレードを拒んだ場合に「ブレイク」という現象が起こる、そうだとして小雪なら、あるいは──昨夜から今まで、京はそんなことを断続的に考えていた。金熊の言葉を借りるなら、すがっていたということになる。
視界も思考も虚ろな中で、トイレの入り口ドアが引き開けられた。顔をのぞかせたのはシンだ。
「長くない? 下痢?」
「シン……」
「っていうか、まさか行かないつもりじゃないよね? ここは整腸剤に頼ってでも行くところでしょ」
シンの冗談とも本気ともつかない言い草に、京は無意識に笑みをこぼした。
「シンお前、さ。もし……ブレイクが精神的ってか、気の持ちようみたいなもので何とかなるもんだとしたら、どう、思う」
「どうって?」
「小雪なら……何とかなる、とか」
「いや、万に一つも思わないけど。なんでこの期に及んでそういう馬鹿らしい発想が出てきちゃうわけ? 僕は小雪さんのことを特別強い人だとも思わないし、ブレイクしてるかもって言われて平静でなんていられないでしょ。人生最初からあきらめてれば……そういうこともあるのかもしれないけどね、少なくとも僕は無理」
京はゆっくり目を見開いた。自らの都合の良い勘違いに、ようやく気が付いたからである。ブレイクへの引き金となる恐怖感をぬぐい去るのは、単純に強い心だと思っていた。精神力と呼ばれるような、揺るがない、強い、こころの力。そう思いながら違和感を抱き続けていた。そうじゃない。恐怖を感じないのは、はじめから絶望している者だけだ。失うものが残されていない、本当の孤独に支配されている者──例えば15年前のクリスマスイブ、唯一の家族を永遠に失った少年のように。
京はロビーに飛び出した。押しのけられたシンは不服そうに眉をしかめていた。が、必要情報は忘れずに投げる。
「京! みんな巡回ルートに沿って動くから! 城戸さんが車で流す!」
「分かった! 頼む!」
男子トイレから絶叫するシンと、ロビーを全力疾走する京。出社間もない他部署の連中が何事かと目を丸くするその中に、コートを着直しながら今まさにエントランスを出ようとしていた荒木と城戸の姿もあった。京は視線だけで会釈して二人を追い越すと、上着も無しに寒空の中へ飛び出していった。呆然とする二人の横を更に小走りのシンが追いこしていく。荒木と城戸は同じタイミングで揃って顔を見合わせた。
「俺たちもこうしちゃいらんねーな、行くか」
「あいつらより先に白姫見つけて、悔しがらせてやりますかっ」
荒木にしろ城戸にしろ、このときはまだ事態をそう深刻には捉えていなかった。楽観視していたわけではない、ただ先の見通しが甘かった。管轄内を隈なく捜索すれば、正午までには事態は収拾すると踏んでいた。こうした捜索は日常茶飯事で、彼らはそのプロだと言う自負があった。おまけに小雪は不正規のスプラウトでも闇社会の人間でもない。システム課に協力を依頼し、登録されているスプラウト反応を追えば発見は造作もないことだ。手配は既に済ませてあり、足を使って捜索している間に情報が入るだろうと考えていた。
金熊は、城戸が乗る社用車の無線から、京が捜索に合流した旨の報告を受けた。合流といっても実際は野ばなし状態だ。説得したのがシンなのだから仕方が無い。
「ということで、浦島自身からの密な報告ってのは期待しないでください。相当余裕ない状態ですっ飛んでいきましたから」
城戸はいつもの巡回と同じように周囲に視線を走らせながら、法定速度で国道を進んでいた。意識してスピードを落とさなくても、今日は特別混んでいる。半渋滞のような状態だ。無線の向こうで金熊が「そうか」と気のない返事をしていた。
「間違わないと思いますよ。俺たちより、いろんな意味で奴の方が白姫に近いですから。課長にも」
車の流れが完全に止まる。金熊からは先刻と同じ生返事があるだけで、新たな指示も情報もなかった。
停車した前方車両の後部座席に、大きなテディベアを抱きしめてはしゃぐ女の子の姿が見えた。職務中に不謹慎だとは思いながらも、思わず微笑が漏れる。歩道には腕を組んで歩くカップル、時折ショーウィンドウの前で立ち止まって楽しそうに会話を交わしていた。
「こんな中一人で、なにやってんのかね白姫は……」
腕時計を一瞥して城戸は表情を曇らせた。間もなく午前11時をまわろうとしていた。

12月24日【8:30】スプラウトセイバーズ藤和支社、エントランスロビー。
とにかく究極に寒い朝だった。エントランスの自動ドアは、誰でもかれでも見境なく「ようこそ」とばかりに開いては閉まる。この時間は電車で出社してくる者がこぞって小走りに駆けこんでくるものだから、ロビー内は絶えず吹きさらしの状態だった。その、大して暖かくもない社内に京も同じように駆け込む。一昔前の刑事さながらにコートの襟をにたてて、首を竦めていた。
「おーはよーございまーす。寒いねー、地獄だねー」
いつもと同じように受付に寄って、いつもと同じようにコートのポケットからカイロを取り出すと受付カウンターに恭しく献上した。12月に入ってから、藤和駅の前で配られている広告入りのカイロだ。駅からカンパニーまでの道のりでは重宝するが、一度社内に入ってしまえば不必要な代物である。そういうわけで、屋内にも関わらず吹きさらしの刑にさらされている受付嬢たちに毎朝マメにプレゼントすることにしている。
「おはようございます、浦島さん。毎朝ありがとうございます」
「俺らは寒いのも朝のうちだけだからね」
「そうそう、これ。今日受付に立ち寄って頂いた方にお配りするんですけど、浦島さんも良かったら」
カウンターに乗せられたのは透明フィルムでラッピングされたジンジャーブレッドマンだ。
「元気がないようなので」
京の顔に即座に苦笑がにじんだ。彼のポーカーフェイスは、数秒の会話で見破られるほどのお粗末なものだったようだ。どことなく愛嬌のあるジンジャーブレッドマンを掲げて礼を言うと、そそくさとカウンターを後にした。
──クリスマスイブだ。繰り返される365日の中で一番、忘れてしまいたい日だ。そして、忘れてはならない、忘れられない日。
色とりどりに飾られたクリスマスツリー、街中でケーキを売りさばくサンタクロース(たまにミニスカート)、トナカイの角を生やしたコンビニ店員、流れてくる「もろびとこぞりて」、駅からカンパニーまでの短い道のりだけでも、それらが「今日は特別な日」だと訴えかけてきた。特別に楽しくて、特別に幸せな日なのだと。京にとっては単に「怜奈が死んだ日」だ。それを全世界が総力を挙げて祝っているように見えて、気持ちが悪かった。だから12月の雰囲気は嫌いだし、とりわけ24日は本音を言えば作り笑いをするのも億劫な日だった。
例年この日はさっさと仕事を切り上げてスプラウト保養・研究所に足を運ぶ。が、今年はそれすらかなわない。怜奈の遺体は未だ本社の研究施設に置かれ、モルモットさながらに解剖を受けている。つまり今年は本当の意味で独りなのだ。しかしながら生憎彼は、そうやって感傷に浸り、改めて孤独を噛みしめるような悠長な状況に置かれていなかった。
笑顔のジンジャーブレッドマンをぼんやり見つめながら、京は昨夜のことを思った。
「浦島……っ!」
思い始めたところで、どこからともなく現れた金熊の声に呼び止められる。
「あ、課長。おはようござい──」
「ちょっと来い、話がある」
金熊は京の腕を掴んで、ロビーの奥にある男性用トイレへ強引に引きずった。一階トイレはほとんど来客用で、朝早いこの時間は人気が無い。ごくたまに、朝から腹を下した哀れな社員が籠っていたりもするが、それもないようだった。つまり無人だ。
「か、課長……っ。落ち着きましょうよ、これどういう展開に持っていくつもりです?」
本能的に身の危険を察知して、引きつった笑みを浮かべて青ざめる京。金熊は扉を閉めるなり、京を放り投げるように壁にたたきつけた。まさかの「壁ドン」である。
「白姫くんに緊急検査命令が出た」
金熊が早口に告げたその言葉に、京の顔色が変わる。意味を理解しているからこその反応だ、金熊は奥歯を噛みしめた。
「緊急検査命令」は、ブレイクの疑いが濃厚なスプラウトに対してセイバーズが発するもので、対象に拒否権は与えられない。セイブ現場において、理性や知性が残っているブレイクスプラウトに発令されるのが基本である。それが小雪に発令された、金熊の言い回しを以てすれば発令元は本社だろう。リークした人間がいなければこうはならない。
「……誰が」
「監査のどっちかだろう、そんなことはこの際どうでもいい。問題は、白姫くんが電話に出ないってことだ。電源は入ってるのに留守電にもならん。……お前、何か知ってるんじゃないのか」
京は咄嗟に言葉が出ず、そのまま馬鹿みたいに目を見開いていた。金熊はそれを肯定ととる。自分が落ち着くために一度深々と嘆息した。
「本社側には荒木が対応して適当に取り繕ってる状態だ。が、このまま検査命令に応じなければ『セイブ命令』に切り替わることになる。……俺としてはな、訳が分からないんだよはっきり言って。だからお前に確認してるんだ。何か知ってるんじゃないのか」
念を押すように一言一句をはっきりと口にした。金熊は、京が何か隠していると確信しているからこうして強行手段に出ているのだ。そうでなくとも穏便に事をすすめている段階ではないということだろう。互いに手のひらに汗がにじんでいた。
京はゆっくりと口を開き、昨夜のことをかいつまんで説明した。更に小雪のパソコンをチェックし、意味の無い文字の羅列や大量の空のデータファイルを発見していることも話した。金熊はそれを黙って聞いていたが、やがて一際大きく嘆息すると京の途切れ途切れの報告を遮断した。呆れていたのではない、こみ上げてくる憤怒を少しでも外に吐き出すためだ。そうやって吐き出したはずの感情を金熊はすぐさま勢いよく吸い込んだ。
「くぉんっの、馬鹿野郎がぁあああっ!!」
その怒声は、無人のトイレの壁を突き抜けてロビー全体に響き渡った。来客準備に勤しんでいた受付嬢たちはもちろんのこと、入り口近くに居を構える生活相談課の面々、エレベーター待ちをしていた法務課連中、自動ドアをくぐったばかりのI-システム課職員まで、皆等しく体を強張らせて何事かと辺りを見回す。
「何で早く俺に報告しない! お前はそれでもスプラウトセイバーズか!!」
次の一喝で、それがフロアの男性用トイレからで、保安課長金熊のものらしいということが皆に知れた。そうなると例え一部始終を見ていなかったとしても、怒鳴られている相手が誰かは容易に想像がつくのが藤和支社の古参社員たちだ。5階で日々繰り広げられている光景が、今朝はたまたま1階トイレに出張してきたのだろう程度で片づけて、皆それぞれの業務に意識を戻していった。
金熊は携帯電話を弾き開けた。リダイヤルボタンを押す、その数秒すら惜しいのか舌打ちが漏れた。彼の苛立ちが伝わるはずもないのだが、かけた先の相手は空気を読んでワンコール鳴り終わる前に電話に出る。
「荒木、全員集めろ。白姫くんの捜索が最優先だ、彼女はブレイクの可能性がある。発見時症状が確認されるようなら直ちにセイブ」
金熊の口から当然のように発せられるいくつかの単語に、その組み合わせに、京は違和感を覚えずにはいられなかった。砂利を噛んだような苦々しい気持ちで、金熊と電話の向こうの荒木のやりとりを黙って見守る。
(直ちに“セイブ”か……)
日常的に使用してきたその言葉が今になって、具体的にどうするという指示のないひどく都合の良いもののように思えた。具体的にどうするかは、自分が一番よく知っている。もはや理解不能の思考をさらけだす対象をなだめすかして、力づくで押さえつけるだけだ。それがスプラウトセイバーズの花形と呼ばれる保安課の主な業務、今日まで数限りなくこなしてきた京自身の職務だ。
金熊は荒木に指示を出しながら視線だけを俯く京へ向けた。
「──とにかくすぐ上がるから捜索エリアを割り振ってくれ。……白姫くんは我々の仲間だ、なんとしても『守る』ぞ」
京が顔をあげると通話を終えた金熊としっかりと目が合った。
「お前、迷ったのか」
唐突なようでいても、その質問の意味を京はすんなり解することができた。おそらくは小雪をセイブするか否かをという意味合いだろう。ただ答えには窮した。
「俺たちの考える“セイブ”が彼女にとっても果たしてそうか──」
「そう思うなら来るな。大神良治の言うアップグレード、か? そういうのにすがっておけばいいさ。ただほっておけば彼女は苦しみながら狂い腐って死ぬ。人も傷つけるだろう。……それを我々は許すわけにはいかない。彼女のためにも」
金熊は言いながらトイレのドアを反対側にたたきつけてロビーに出た。いかり肩を更に怒らせて大股でエレベーターに乗り込む。順番待ちをしていた法務課職員たちは思わず道を開けた。
5階に到着するなり金熊の耳に荒木の怒声が聞こえてきた。
「だぁかぁら! あんた方もほんっとに石頭だな! もともと白姫は半休とってんですよ、午前中に電話がつながらないからって目くじら立てられるもんでもないでしょうが!」
彼も言うほど気が長い方ではない、相手が融通の効かない監査畑の人間ならなおさらだ。金熊は小走りに保安課のドアを目指した。
「ですから。白姫さんが本日半休である旨を我々は伺っていないと言っているのです。監査中は極力、通常業務を通常通りこなしていただくよう申し上げているはずですが」
「だ~か~らぁぁ! クリスマスイブに職員が半休とってなぁにが悪いってんだよ! 俺だってケーキ買ってさっさとかわいい娘のところに帰りてーんだ! それをぐちぐちぐちぐちとねちっこい連中だなお宅らは!」
「荒木さ~ん、落ち着いてくださいよ……あ。課長」
今にも手が出そうな荒木と能面のような監査職員二名の間で、城戸が似非スマイルを振りまいていた。なるほど荒木の機転で、小雪は半休扱いになっているらしい。当然のことながらそんな申請は誰も受けていない。金熊は、半ばわざとらしくキレている荒木に目配せをして廊下まで呼び寄せた。
「課長、すみません。エリア割りがまだ……というか浦島は、何か」
「巡回ルート通りでいいから全員単独で捜索だ。浦島は、今回は出さん。当てにするな」
金熊の有無を言わさぬ口ぶりに、荒木もそれ以上は追及しないことにした。
「あっちはどうしますか」
ちらりと監査組の二人に視線を送る。
「……そのままほっとけ。本社には俺から連絡して昼までもたせる、それまでに何としても白姫くんを見つけるぞ……!」
荒木が無言で頷き、今度は城戸とシンに手招きする。入れ替わりに金熊が入室し、わき目も振らず自分のデスクに設置してある固定電話から受話器を取り上げた。

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同日午後8時。港湾区、藤和埠頭公園前。
駅の改札を抜けると、そこには別世界が広がっていた。公園の街路樹という街路樹は全て赤や緑、幻想的な青色のライトで星空のように輝く。この地に足を踏み入れることができるのは、運命の赤い糸で結ばれた恋人たちのみ、とでも言わんばかりに周囲はカップルだらけだ。当然、京は浮く。それでも乙木の中央通りをひた走っていたときよりは、彼を見る好奇の目も幾分和らいでいるように感じた。皆自分たちの雰囲気づくりに忙しい。
メイン会場は階段を下りた先、波止場が一望できる広場だ。その中央に本日の主役、馬鹿でかいクリスマスツリーが我物顔で聳え立っているのが見えた。主役だけあって、他のどの街路樹よりもきらびやかに着飾っている。中身の知れない無数のプレゼントの箱、とぐろを巻く銀色のモール、大中小のジングルベル、兎にも角にもピカピカ忙しなく光る。訪れた人々は皆、魔法にでもかかったようにそれらをうっとりと眺めていた。
小雪を見つけるのに時間はかからなかった。広場からは遥か上の休憩場所、公衆電話のボックスが申し訳なさそうに彼女に寄り添っていた。いくつかあるベンチには小雪以外誰も座っていない。
10メートル程手前で互いに姿を確認した。近づいてくる足音に対を、小雪は力の無い苦笑いで出迎えた。
「セイブ命令が……出たんでしょ?」
彼女の第一声は、その精いっぱいの苦笑いと共に吐きだされた。京は答えなかった。言葉で受け答えができるほど呼吸が整っていなかった。白い息が蒸気のように次々と夜空にあがる。そのままベンチまで走った。
「ていうか、なんて格好してんのそれ。今日の気温知ってる? 夜中には雪が降るかもって──」
京が目の前に立った。かと思うと、思いきり腕を引かれて小雪はよろめきながら立ちあがった。自分ではただ立ったつもりだったのに、次の瞬間には京の腕の中にいた。混乱したのは本当に一瞬で、こういう方がこの場にはふさわしいのかもしれないな、などとどこか他人事のように考えた。京の肩越しに見える景色が、ひどく綺麗だ。先刻まで同じ景色を眺めていたのに、今初めてそんなことを思った。
「カウントダウン、終わっちゃったんですけど」
抱きしめられてすぐさま思いついたのは、どうでもいい類の憎まれ口だった。
「ごめん」
いつもは余計なことまでベラベラ喋るくせに、こういうときに限って京は無口だ。それとも何か喋っているのだろうか──もう自信がない。
「周りカップルだらけで、ナンパすらされないし」
「……ごめん」
震えが止まらないのも寒さのせいではない、のかもしれない。自分のことすら不確かだ。頬を刺す風、視界を埋め尽くす美しい光の数々、聴こえ続けるクリスマスソング、そういうものはなおさら自分とは別の世界の出来事のように感じる。全てが不確か。そして感覚を支配していく恐怖だけが確かな存在としてそこにあった。
「ねえ、私……どうなるの……?」
抱きしめられたまま独り言のようにつぶやいた。聞こえていないならそれでもよかったが、その言葉をきっかけに京はゆっくり身を引いた。
「……うそ。ちゃんと分かってる。セイバーズですから」
小雪はいつものように笑った。いつもより、柔らかく笑ったかもしれない。京が珍しく真剣で優しいから、こちらもそう言う風に応えようという気になった。
「通常であれば──」
優しいというのは錯覚かもしれないけれど、と思った矢先に京は口火を切る。
「アイ細胞の検査と諸症状の経過観察に、少なくとも三日は要する。でも、もし俺を信じてくれるなら、その三日は必要ない」
「なに……? どういう──」
訝しげに顔を上げた瞬間、京と目が合った。そして同時に思い出した。

散らかった思考に、突然乙女の声が割り込んできた。そうだ、自分は確かこの台詞を聞いて──。
「え……誰、が」
後部座席で独りごちる小雪、タクシーの運転手がバックミラー越しに訝しげな視線をよこした。
「お客さん、寒い?」
運転手の間の抜けた問いかけに小雪は少しだけ顔をあげた。と、バックミラーに映った自分の顔があまりに青くて目を見開く。暖房の効いた車内でがたがた震えていた。

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同日、19時30分。スプラウトセイバーズ藤和支社、自動販売機コーナー。
投入口から自販機の中へ身投げしていく硬貨、あちこちぶつかって楽しげな音を響かせる。最後の硬貨を押しこんで、いつものようにいつものボタンを押した。何かとんでもない事件が起きて何故かこの自販機の指紋を採取するようなことがあれば、「しのぶ」のボタンからは間違いなく京の指紋ばかりが採取されることになるだろう。「しのぶ」も変わらず、冷たい機械の中を全身あちこちぶつけながら派手に登場してくれる。それを拾い上げたところで、嫌な足音が耳についた。ハイヒールと松葉づえの異質コラボレーションが織りなす、ゆっくりとした足取り。
「気づいてるんでしょ、あのコの様子」
「何が」
乙女の方を見向きもせずに、京はプルタブを開けた。喉が渇いていた。一刻も早く、このからからの喉を潤す必要がある、そう思ったからここへ来たのであって乙女の陰湿な待ち伏せに付き合ってやる義理はない。
京の頑なな態度の本質を、見透かしたように乙女はただ長い嘆息をした。
「……ブレイクしてるんじゃない」
喉が渇いて、痛かった。効かせすぎの空調で乾燥した空気が、呼吸するたびに気管を締めつけている気がする。京は緑茶を一気に半分ほど飲みほした。
「言っていいことと悪いことがある」
乾きが癒えず、痛みが消えない。
「ごまかしたって仕方ないでしょう。あんたが言わないなら私から金熊課長に」
「余計なことすんな」
自分でもわかるくらいに語気が強まった。どこまでも冷静な乙女と、結局どこまでも冷静になれない自分に嫌気がさして京は小さく舌打ちする。
「検査を受けるべきだと言ってるの。あんたたちだけの問題じゃない」
「……現段階で、お前に口出されるような問題でもない」
「京」
諭すように名前を呼ばれる。京は缶の残り半分をまた一気に飲み干した。
みちるから申告を受けた後、京は小雪のノートパソコンを立ち上げている。そして、ここ一週間のアクセス履歴から業務の進捗状況、修正箇所まで全て復元し彼女の動向を細かに追った。ある意味で大胆なこの行動のおかげで、頭の隅を掠めていた疑念は払拭された。京は今、自分で導き出した結論を整理するためにここにいる。それを不躾に邪魔された時点でかなり苛立っていた。
またヒールの音が響いた。乙女のそれとは違う。彼女は先刻から腕組み仁王立ちで京の前に立ちふさがっているから、地団駄を踏もうものならより明確に響くはずだ。足音は躊躇っていた。やがて意を決したように激しく踵を打ちならして廊下を駆け抜けて行った。
「小雪……?」
呟いて、無意識に乙女の顔色をうかがった。どこまでも冷静だ。はじめからか途中からか、小雪の存在に気づいていたのだから当然の態度である。
「乙女、お前……っ」
「間違ったことをしたつもりはない」
乙女を糾弾するのはどう考えても後回しだ。握ったままだったしのぶ缶を溢れ気味の屑かごに無理やり押しこんで、足は消えかけたヒールの音を追っていた。保安課からは自分が点けっぱなしにしてきた明かりが煌々と漏れている。その蛍光灯の下で小雪は何もかもを詰め込むように乱雑に帰宅準備をしていた。
「帰る。どいて」
「待てよ、送る」
ほとんど無意識に掴もうとした二の腕を、これでもかというほど思いきり振りはらわれた。
「一人で帰れる!」
逸らされ続けていた視線が一瞬だけ合う。小雪のアイに溜まった涙を目にして、京は身動きがとれなくなった。その間に小雪は保安課を飛び出して非常階段から一階へ猛スピードで駆け下りていく。京はその足音を聞きながら後頭部を掻きむしった。
「あ~……くそっ……!」
いろいろな取り返しのつかないミスが立て続けに起こっている自覚がある。悔やんでも仕方ないから考えるのをやめて、全力で後を追った。階段を数段飛ばしで落ちるように駆け下り、人通りもまばらになったロビーを走り抜ける。エントランスの自動ドアをこじ開けたところで、小雪を視界に捉えた。長距離を走りこんだかのように、膝に両手をついて肩で息をしている。
小雪の視界は、大時化のなか航海に繰り出した帆船のようにぐらぐらと揺れていた。京の気配を背後に感じても、思うように次の一歩が出ない。立っている足場さえも揺れている気がした。京がまるで当然かのように自分を支えようとするのが、たまらなく嫌でそれさえもなりふり構わず突っぱねた。
「私ブレイクなんかしてない……!」
京は否定も肯定もしない。振り払ったはずの腕に、いつの間にかしがみついて立っている自分に気づいて逃げるように距離をとった。
「疑ってるの、私を」
距離を──とったのだろうか、よく分からない。ただ京が、ごちゃごちゃと何か高速で喋っているということだけ分かる。内容はよく分からない。何故分からないのかが、分からない。視界が揺れ、吐き気が襲い、とにかくひどい気分だ。一刻も早く家に帰りたかった。それなのにこの男は、やはり空気を読まずわけのわからない早口言葉を言い続けている。
我慢の限界だ。
「お願いだから黙ってよ! うるさくて頭が変になりそう!」
感情的に叫んだ途端、辺りが静まりかえった。極端だ。耳を塞ぎたいほどやかましいかと思えば電池が切れたかのように動きさえ止める。おかしいのはどう考えてもこの男の方だ、にも関わらず京は「真剣そう」な眼差しをやめない。ここまでくると目ざわりでしかなかった。
「違うって言ってるのに何でまだそんな目で見るの……?」
これ以上何を話しても無駄な気がして、小雪は待機していたタクシーの方へ駆け寄った。
「小雪……!」
ようやくまともに喋ったかと思えば単に名前を発しただけ、呆れ果てて溜息さえでない。タクシーに乗り込んで自宅の住所を告げた。駅から電車に乗るという選択肢は無かった。
そういえばどうしてここまで気分が悪いんだろう──車が発進すると同時に、思考がまた回転し始める。そういえば──どうして、京は血相を変えて追いかけてきたんだったっけ。

12月23日。スプラウトセイバーズ藤和支社、保安課。
二人の監査職員が叩くキーボードの音や書類を高速で繰る紙の音、それから普段は気にも留めない時計の秒針の音なんかが響いて聞こえる。室内は極めて静かだった。昨日に引き続き昼になっても出動要請ベルが鳴らず、法務課や生活課からの書類の催促もなく、極めつけにいつもは一人で五人分はやかましい男が電池が切れたように無言のためである。風邪のひきはじめなのか少し詰まったような金熊の呼吸音が、妙に耳触りだった。
謎の緊張感、居心地の悪い無言体制、その均衡を破ったのは意外にも電池切れ男ではなく彼女だった。「ドバン!」という何かオーソドックスな衝撃音が突如として轟く。入り口ドア──監査中のための閉じられている──の前で鼻っつらを押さえて呻く小雪がいた。どうやらドアに派手に突撃したらしい、一部始終を見てしまったシンと城戸はただただ呆気にとられている。状況だけは一応理解した京が、痛がる小雪の後ろからそっとドアを開けた。
「……ほんとに大丈夫か」
小雪は一瞬だけ視線をこちらに向けた。京の神妙な面持ちを見て、一秒かそれ以下の短い時間ですぐに視線を逸らす。そして何事もなかったかのように廊下に出ていった。結局この一部始終でシンと城戸が揃って笑いを噴き出した。そこへ輪唱するかのように加わる、新たな噴出音。小雪とちょうど入れ替わりのような形で乙女が入ってくる。
「相変わらず爽快な無視られっぷりね~。出動要請がないからってコントの練習ばっかりしてちゃだめじゃない」
監査職員が揃って目を光らせているような気配を背中に感じて、京は口をへの字に曲げて乙女を諌めた。今に限っては金熊と荒木も同じような顔つきで乙女を厄介者扱いだ。銃弾二発が太股を貫通している割には元気で、ここ最近は以前と同じ頻度で保安課に入り浸っている。松葉づえの扱いも慣れたものだ。
「っとぉ、絶賛監査中でした? それは失礼」
一昔前のぶりっこのように舌を出して笑う。どこまでも白々しい乙女の謝罪に、京は青筋を浮かべた。
「で、何の用……」
「『これだけメンツ揃えて机に半日張り付いといて、うちに提出される書類がこれっぽっちとは、保安課は鈍重の魔法にでもかかっているのかしら』なーんてことを確かめに来たわけじゃなくー」
「(乙女ぇ……っ)」
「これ。年末までに記入して金熊課長か私に直接返却して。面倒なのよねー、京の場合情報共有にいちいち認印とか必要で」
「それは俺のせいじゃありません」
肩を竦めた乙女から茶封筒をもぎ取って、一応中身を検めた。京自身のアイの基本情報から定期検査の結果、治療履歴など、スプラウト故の特殊な情報が数枚に渡って事細かに記載されてある。要するに、異動に伴う情報管理承認書だ。京は無造作に机の一番上の引き出し(昨日のうちに強制的に整理させられた)からシャチハタ印鑑を取り出した。
「署名してハンコ押しときゃいいんだろ? 今やるよ、絶対忘れるから」
「そうしてくれると助かるわ」
小雪が離席しているのをいいことに、これ幸いと京の隣に座りこむ乙女。そうなることを見越していたのか抜群のタイミングで、みちるが淹れたてのコーヒーを乙女の前に差し出した。
「なんだか……まだピンとこないね、浦島くんが春からいないなんて」
空になったトレイを胸元で抱え込んだままで、みちるが寂しそうに笑う。捺印マシーンと化していた京の手がはたと静止した。
「それっ。その反応待ってたんですよ俺っ。ごく普通に寂しがるっていう態度を誰ひとりとしてとってくれない!」
「そんなことないでしょう? 私もそうだけどシンくんや小雪ちゃんなんか特に、まだ驚きの方が強いんじゃないかな」
「あはは、驚き」
ごく普通に寂しがってくれるみちるの横から、とんでもなく乾いた笑いが聞こえる。相棒の異動処分に対して驚くどころか心の底から納得していた男は、当然のことながら寂しいなどというピュアな感情とは無縁だ。
「そういや小雪さんは? そこそこ寂しかったりするの? 京いなくなると」
そして読むべきときに敢えて空気を読まない男でもある。外出から帰った小雪に向けて、一番間の悪い質問を投げてくれた。無言無表情で入り口ドア前に突っ立つ小雪を見て、京はバツが悪そうにつくり笑いを浮かべる。
「あれ、ひょっとしてまずい質問だった? ごめーん」
一瞬凍りついた空気を、シンは確かに読みとった。読みとったからといってどうこうしないのが桃山流である。質問に答えるどころか話に加わろうともせず、小雪は何故か空になったみちるの席に近づいていく。
「あ、ごっめん小雪ちゃん。席ぶんどってたわね、私もう戻るから座──」
小雪の機嫌を傾けるのに、自分も一役買っていることに気付いたらしい乙女がそそくさと席を立つ。小雪は群がって自分を凝視してくる連中を横目で訝しみながら、みちるの席に設置されてある固定電話の受話器を取り上げた。そして元気に第一声。
「はい! スプラウトセイバーズ藤和支社保安課です!」
不意の大声に金熊も荒木も、業務に没頭していた二人の監査職員も揃って顔をあげた。目を丸くしているのは他の連中も皆同じだ。「ツーツー」と虚しく鳴りつづける電子音を聞きながら、小雪自身も鳩が豆鉄砲を食ったかのように目を点にしている。保安課内にいる全員が微動だにできずにいる中で、小雪は静かに通話相手のいない受話器を置いた。それとほぼ同じタイミングで笑いを噴き出すシン。
「こ、小雪さん? どうしたの……ご、ごめんちょっとおもしろすぎっ」
時間差でじわじわツボにはまったのか、言いながらシンが腹を抱えて離脱する。いきなりの一発芸を本人の意思とは無関係に披露する羽目になってしまった小雪は、赤面したまま凝り固まっていた。
「鳴ってる、ように思ったんだけど……」
弁解するように一応つぶやくが、そうでなかったことくらいはあの虚し過ぎる「ツーツー」音が既に証明してくれている。監査の手前、呆れかえるしかない上司陣と、いつも通り、否いつも以上に大笑いしてくれるシンと城戸、休憩にしようと再び給湯室に向かうみちる、恥ずかしさに耐えかねて小雪もみちるの後を追って給湯室に一時避難した。
「はーっ、もう辛い。疲れすぎでしょ小雪さん。早退させたら? あ、そういう権限は京にはないんだったっけ」
「シンお前、昨日あたりから全力でうざいな……」
「心外だなー。残り少ないバディとのひとときを最大限楽しもうとしてるだけでしょ? あーそういう意味でなら小雪さんがぼーっとしてるのも、まぁ納得はできるか。京の異動、ショックだったんじゃない? 小雪さんも結構かわいい反応するんだね」
京は特に応えもせず、曖昧な笑みでお茶を濁した。
「かわいい反応、ね」
代わりとばかりに乙女が、意味深に呟いて踵を返す。そして意味深に京に視線を送る。京は一瞬かち合った視線をすぐに逸らして、手元の書類をいそいそと茶封筒に詰め直した。
「疲れてるんだろ。休めるときに休むように、言っとく」
「……お互いにね」
茶封筒を受け取ると、乙女はさっさと退室してエレベーターホールへ向かった。乙女が居なくなったことで、京の口からは無意識に安堵の溜息がもれていた。
小雪が逃げ込んだ給湯室は、先刻乙女に出したコーヒーの香りに包まれていた。いつものブレンド豆をいつもの量、いつもの手順で手際よくドリップするみちる。たったそれだけの作業がなんだか魔法のように鮮やかに見える。小雪はやはりぼんやりしながら、人数分のカップをのろのろとトレイに乗せていた。
「やっぱり、寂しくなるね。浦島くんがいなくなると」
みちるの独り言かと思いきや、彼女は慰めるようにこちらに微笑を向けている。小雪は応えなかった。そうですね、と軽く肯定してしまえば済む話だ。それが何故かできずにいる。
黙ってカップを見つめ続ける小雪に合わせて、みちるも黙ったままコーヒーポットを差し出した、刹那。
「……うるさい」
真一文字に結ばれていたはずの唇から、その言葉は絞り出された。聞きまちがいかとも思ったが、みちるは本能的に小雪から一歩距離を取った。あくまで結果として、その判断は正しかったということになる。
ガシャァァァン!! ──給湯室から響いた非日常的な破壊音に、保安課に居た職員は皆作業の手を止めた。訝しげに各々顔を見合わせる中、給湯室に一番近い城戸が腰をあげた。
「おーい。どうし、た──」
「こ、小雪ちゃん……っ。大丈夫!?」
城戸が給湯室を覗き込んだ途端、足元で何か固い物質が粉々に砕ける感触があった。見ると各人愛用のコーヒーカップたち──既に単なる陶器の欠片となっている──が床に散乱し、その中央に座りこむ小雪の姿があった。
「何やってんだ……っ。白姫、青山、怪我は?」
「私は何とも。それより小雪ちゃんが……」
「すみません大丈夫です。ちょっと眩暈、がして」
支えようとするみちるを制して、小雪は血の気の無い顔のままおもむろに立ちあがった。額を押さえた手のところどころに細かな切り傷ができている。城戸の嘆息がやけに響いた。気付けば入り口には残りの保安課メンバーがひしめき合っている。その中でもとりわけ金熊が大げさに天を仰いでいた。
「白姫君、そこはもういいから……ちょっと」
床一面に散らばった破片と心配顔のみちるを気にかけながらも、小雪は金熊について課長席の前に立った。背後には相変わらず我関せずと業務に当たる監査職員の気配。そして談笑しながら給湯室の後始末をする同僚たちの声。それら全てが、妙に遠くの出来事のように掠れて聞こえた。
金熊の第一声は予想通り溜息混じりだった。
「ちょっと、気が抜けてるんじゃないか? 朝からどうも集中力に欠けているように見える」
「はい……すみません」
「もしそうではなくて、なんだ、体調が悪いのならそれはそれで申告すべきだろう。今ベルが鳴ったとして、だな。君はその状態でセイブに行くつもりか?」
「いえ……行くべきではないと、思います」
小雪にしては珍しく歯切れの悪い受け答えだ、対する金熊も彼女への説教は慣れていないせいか勢いがない。そんな二人の様子を盗み見ながら、京はシンク横の掃除用具入れを引き開けた。ちりとりを手に取ったところでみちるに腕を引かれる。「浦島くん、ちょっと」という声がやけに早口で余裕が無い。
「とにかく先に医務室に行って、傷の手当てをしてきなさい。その後は休憩をとりながら資料室の整理、定時にあがる。いいね?」
金熊の短い説教が終わるのを待たずに、半ば引きずられるような形で京はみちると共に保安課を出た。暗黙の了解とでも言わんばかりに二人で息を潜め、ふらふらとおぼつかない足取りでエレベーターに向かう小雪の後ろ姿を見守る。彼女の姿が完全に見えなくなるのを見届けて、ようやくみちるが腕を離してくれた。嬉しいやら痛いやら。
「で……どうしたんですか? 強引なみちるさんも嫌いじゃないけど」
「自分でたたきつけたように見えた」
冗談めかす京を完全になかったことにして、みちるは震える唇を制するために口元を覆った。京の表情は締まりの無い笑顔のまま固まっている。
「私が……軽い気持ちで浦島くんの話を出したの。そのせい、かもしれない。だって小雪ちゃん……」
「みちるさん、落ち着いて」
いつになく取り乱すみちるの肩を、セクハラにならない程度に何度かリズム良くたたく。
「考え過ぎですよ。仮にそうだったら俺が嬉しいだけじゃないですか」
「でも」
「後で俺が話します。実を言うと、はじめに小雪のこと怒らせてるの俺なんですよ」
軽口をたたくと自然に苦笑いが漏れた。いつも通りの一貫した態度の京に安堵したのか、みちるも何とか自分を納得させることができた。


Message to Kinshiros Steeler Page

──至急会って確認したいことがあるから、今日のお昼休み、時間を合わせられない? ─
─というのが竹中神楽からのメール本文だ。絵文字はない。ないが、シンはそれで相手の機嫌を推し量る真似はしない。ひとつ確かなのは、愛の告白ではなさそうだなという点だけだ。正午ぴったりに、藤和南、駅前の古い喫茶店で待ち合わせた。この通りに来るのはたったの3時間ぶり。神楽もまさかそうであるとは、流石のシンも予想だにしていなかった。
11時55分、二人は店の入り口で鉢合わせた。
「そっか、仕事中はアップスタイルなんだね」
この前、つまり合コンで会ったときは、ロングウェーブの髪をハーフアップにしていた覚えがある。今日はそれをすっきり夜会巻にしていた。濃紺のカーディガンを上まで止めているが、下のスカートを見れば彼女が医療関係の人間であることは容易に想像がつく。合コン相手は皆看護師だった。
神楽は通りに面した席を選び、シンもそれに続いて腰を下ろした。
「時間があまりないから単刀直入に言うけど」
シンは出された水に口をつける。やはりあまり良い宣言ではなさそうだ。記憶の中の神楽は比較的よく笑う穏やかそうなタイプだったが、今は全く口角があがっていない。いろいろ思考を巡らせたが、こうして呼び出されるに至るような思い当たる節はない。
「私、今朝ここに居たの。あなたが、スプラウトを“セイブ”してる現場に」
ぶっ! ──シンはべたに、含んでいた水を吹きこぼした。直球、それもかなりの速球がシンの心のミットにたたき込まれた。むせながらテーブルを拭く。この反応を見せれば、もはや肯定しているようなものだ。
「城戸さんも居た。あなたたち、みんなZELLの職員だって言ったよね?」
「あー……うん、半分はね。みんなとは、言ったかなー……?」
看護師との合コンを企画したのは、セイバーズとOA機器の販売・リース契約を結んでいるZELL社の人間だった。彼らから、にぎやかしで構わないからと誘われたのがシンと城戸だった。
「私が聴き間違えた? そんわけないよね。どうしてそういう……嘘、ついたりするの」
今さら完璧な爽やかスマイルを装っても後の祭りである。神楽はシンに「本当は何の仕事なのか」ではなく、「なぜ嘘をついたのか」を問うている。最終段階まできておいて、今さらあがくのもバカバカしい。
シンは視線で店員を呼びつけると、コーヒーだけを二つ注文した。おそらくこれから仲良く昼食をという雰囲気にもならないし、時間もないだろう。そして、わざわざ外してきたセイバーズバッジをスーツの襟に付け直す。神楽が身構えるのが分かった。
「スプラウトセイバーズは、暗黙の了解として日常生活で身分を明かさない。特に業務上不要、あるいは妨げとなると判断された場合はね。更に言えば、必要に応じて虚偽の身分を使用することが認められてる」
セイバーズとして公的に行使できる権利はほぼ皆無だ。つまり馬鹿正直にセイバーズであることを明かしても、得られるメリットがほとんどないということである。
シンの淡々とした言いぐさにか、その内容にか、神楽はより一層眉をひそめた。
「嘘が許されているってこと?」
「その方が円滑に進む世の中だってこと。セイバーズっていうか、スプラウトそのものを理解しない人も多いから」
「そんなこと……ないと思うけど」
神楽は語尾を弱めた。スプラウトを理解しているかそうでないかと言われると返答に困る。身近に感じたことがない、というのが本音だった。少なくとも、“ブレイク”と呼ばれるスプラウトが何かしらの事件を起こして目の前で取り押えられても、それは神楽にとって「窓の外」の出来事に過ぎなかった。そこにシンがいたから、それがいきなり現実味を帯びた。
シンは出されたコーヒーをブラックのまま飲んだ。老舗にしてはたいしてうまくもないコーヒーだ。神楽の言葉にはとりわけ反応を示さない。
「……ごめん。よく知りもしないで勝手なこと言った気がする。でも──」
「嘘をついたのは僕らだし、神楽さんが謝ることじゃないよ。こっちこそごめん」
シンがにっこりと笑ったのを見て、神楽はまた不快を露わにした。微笑みかけて睨まれたのは初めてだ、シンの笑顔が固まる。
「それ」
神楽がため息交じりにぼやく。
「その笑い方が既に嘘っぽい。ごまかしてさっさと帰ろうって顔」
「……否定はしないけど」
「ほらっ。そっちが本当でしょう? 今朝ここから見てたときも『面倒だなぁ~』って顔してたっ」
「否定は、しないけど。見てたんだ? 僕がセイブしてるところ終始?」
シンはまた、例の嘘くさい笑みを思い切り浮かべた。神楽は動じない。半眼、無言でシンの笑顔をけなすだけだ。
「……理解されないって決めつけるのは良くないと思う」
「そうだね。少なくとも神楽さんが、理解のない人間じゃないことは分かった」
シンはコーヒーを半分以上残したまま先に席を立った。モバイルの時間表示に視線を落とす。
「シンくん」
「休憩時間、そんなにないでしょ? 嘘ついたお詫びに今度おごるよ。だから質問はそのときまでとっといて」
神楽も気づいて腕時計に目を落とした。覚悟はしていたが昼食は抜くしかない、今から病院に帰って休憩時間ぎりぎりというところだ。少なからず空腹を覚えている神楽の横でさっさと会計を済ませるシン、店を出る間際に紙包みのサンドイッチを神楽に手渡した。神楽もよく買う、この店のテイクアウト商品では一番人気のものだ。シンも同じものを手に抱えている。
「電話するよ」
シンは癖でまた口角をあげた。女の子を目の前にして笑うのは、もう癖みたいなものだ。『その方が円滑に進む世の中』だと思うからそうしてしまう。それでも必要以上に作り笑いを浮かべるような真似はしなかった。一応誠意を持って言った言葉だ、嘘だと罵られてはたまらない。神楽もそれを察して仕方なさそうに笑って頷いた。
神楽と別れて数十秒後、タイミングを見計らったかのように京からの電話が鳴る。サンドイッチを頬張りながら通話ボタンをタップすると、すぐさま京の声が外に漏れた。
『シン、今どこだ? 出るぞ、通報入った』
「えー……。いいよ、遠慮するよー。たまには小雪さんと二人っきりで行ってきなよー」
『アホなこと言ってないでさっさと戻れっ。もしくは途中で拾うから』
口を開けばアホなことしか言わない男に窘められるとは心外だ。カンパニーで、緊張感のある出動要請ベルを聞くのと、昼さがりの駅前でサンドイッチを食べながら又聞きするのとでは気持ちのスイッチの入り方が違う。シンは改めてそれを実感した。
「いいよ、直行する。現場どこ?」
その間にやる気満々組との温度差を、ある程度埋める必要がある。足を速めた。
『まさかの二連発、南藤和。出るなら出るで朝から言っといてくれりゃあ待機したんだけどな』
「それってさあ、露出狂?」
『? なんでわかった?』
シンはげんなりした表情で、一度固く瞼を閉じた。速度を徐々に緩め、一旦停止する。目を開けた瞬間に眼前の光景がきれいさっぱり消え失せてくれることを祈ったが、確認する前にいくつかの悲鳴が耳元をよぎった。視線の先で、どこまでも楽しそうに下半身を露出した男が立っている。周囲の悲鳴が心地よいらしい、今にも踊り出しそうだ。
『……できるだけ早めに向かうから、対処よろしく』
悲鳴は通話口を通して京まで聞こえたようだ。シンは面倒そうに生返事をすると手短に電話を切る。何となく、後方を確認した。竹中神楽と別れた後だったことは不幸中の幸いかもしれないと思い直す。それから、喜色満面で駅前通りを闊歩する裸の王様に視線を移し、距離を詰めた。
「スプラウトセイバーズでーす。楽しそうなところ大変申し訳ないんですけど、通報があったんでぱぱっとセイブさせてもらいますねー」
結局、やる気だとか緊張感だとかをあげることはかなわなかった。シンのテンションは最低気温のままだ。できるだけ下方に視線を向けないように注意を払いながら、早速スプラウトの内股を払う。おそらくマニュアルに従えば、まずは説得から入らなければならないのだろうが、そんなことは知ったことではない。何が起きたのか理解できないままバランスを崩した男を、そのまま薙ぎ払って路面で抑え込んだ。周囲で悲鳴と喝采があがる。シンはそれすらも聞き流して、とにかく空ばかりを見ることに努めた。
気持ちも装いも春めいた男とは対照的にシンのやる気と同じくらい冷えた空気が、薄汚れた雪をつくってのんびり降り始めた。

HOLOHOLO160 まあそう言われればそうなんだが。こりゃまいったなあ…

「──っていうことがあの後あって。神楽さんに糾弾された後だったからさー、もうテンションさがってさがって」
南藤和の二連発セイブから三日、シンは約束どおり神楽に電話をした。そして約束どおりこうして二人で食事をしている。港湾区にあるドイツ料理の店「ラプンツェル」は、高層ビルの中腹にあり、夜景と料理が評判だ。視界に入る全面ガラス張りの壁には、フェアリーランドのカラフルなイルミネーションと、港に停泊する船舶の淡い光が調和した幻想的な景観が映し出されている。
「きゅ、糾弾なんかしてないでしょ。話を大きくしないでよっ」
慌てふためく神楽を見て、シンは思わず噴き出した。馬鹿にしたのではない。南藤和の喫茶店で「デキる看護師」のイメージを保ち続けた彼女が、今日は何となく合コンのときの可愛らしい印象に戻っているように思えたからだ。それでも神楽は少女ではない。店に合わせて選んだのだろう形のきれいなネイビーのワンピースは、線の細い神楽によく似合っていた。
「その……そういうふうに“セイブ”されたスプラウトはどうなるの? 拘置所みたいなところに入るとか」
「不正解。アイを削って記憶末梢」
ワイングラスを握っていた神楽の手がとまる。シンは至って平静にハムを口に運んだ。入念に咀嚼しながら神楽の顔を見つめる。次の言葉を厳選するために目を伏せた彼女を見て、シンはさすがに可哀そうかなと思いナイフを置いた。
「……っていうのが一番極端な例で、記憶障害は結果的にそうなる場合もあるって話。会話ができる程度のブレイクならほとんどが治療と書類送検で終わるよ。この前の南藤和の件みたいにね」
何事もなかったかのようにビアマグを手にとる。
「他に質問があれば答えるよ。今日はちゃんと、セイバーズの桃山心太郎として来てることだし」
神楽は複雑そうに微笑を浮かべてゆっくりワインに口をつけた。そういえば、今日のシンはほとんど作り笑いをしない。時折、神楽の反応を見て童顔が引き立つようなあどけない顔で笑うことはあっても。シン自身が話をするときは、やけに冷めた口調であるのも特徴的だった。必要に応じて嘘をつくと宣言した彼がそうしないのは、神楽が嘘をつく必要性のない人間だと判断されたからだろうか──それを考えると少しだけ頬が紅潮するのが分かった。ごまかすようにワインを流し込む。
「そういう段階のブレイクスプラウトは……結構いる、ものなの?」
「うーん……何とも言えない質問かなぁ。ガン患者の総数に対して、末期の人は結構いるものなの? っていうかんじじゃない?」
不謹慎のような気もするが、神楽には判り易いたとえだった。
「それじゃあシンくんも、そういうセイブに立ち会ったことがあるのよね」
「そりゃあね。……そのあたりの対処で、見解の相違が生まれるわけ。倫理観とか、道徳観とか、そういうのは人それぞれだからさ。宗教国家でもない限り統一はできないでしょ」
神楽はシンの言葉のひとつひとつを、自らの状況に換言して考えた。脳死の判断、安楽死や尊厳死の基準、昔から議論され続けているのに永遠に統一されない。神楽自身、それで苦い思いをしたこともあった。それだからシンの淡々とした口調は胸に刺さる。
「だから、スプラウトそのものを“絶対的に理解しない人”もいる。それも少数じゃない。……って僕は思ってる。別に悲観的に捉えてるわけじゃなくて、事実として認識すべきことだと思うから」
シンの言葉は、スプラウトを理解しない人間を批難する風ではない。どこまでも客観的な見解だ。それはその分野に身を置く人間としては珍しいような気もした。それとも神楽が自らの分野に、私情を持ち込みすぎているのだろうか。思いながらかぶりを振った。
「でも、シンくん自身はスプラウトを“理解をしようとする”人でしょう? そういう人たちが集まってセイバーズという組織があるんだから。だったら、そういう人はきっと外にもたくさんいるって思いたいじゃない」
「たくさん、ね。それは言い過ぎ」
「……冷めてる」
「事実だよ。この前も言ったけど、理解しようとする人がいることは知ってる。現にいま僕は神楽さんにペラペラ自分の内情を話してるわけだし。こんなの同僚にだって話さないよ、普通」
「そう、なんだ」
デザートが運ばれてきた。サワーチェリーにクリームがたっぷりのった「ローテグリュッツ」。赤と白の鮮やかなコントラストに感激したふりをして、神楽は今度こそ見事に紅潮した頬を何とか隠そうと努めた。同時に、勘違いはしたくないなと自分を律する。シンは誰がどう見ても場馴れしている。「君にだけ」はおそらくよく使う言葉のはずだ。神楽としてはそれなりに経験もあるし、年下の男相手に振り回されるのは本意ではなかった。ひとつ気にかかるのは、シンが例の極上のつくり笑いを未だにしないことだ。その代わりとばかりにやけに声をあげて笑う。今がまさにそうだ。
「神楽さーん。なんかそのベリー並に顔赤いけど大丈夫?」
「大人を馬鹿にしないで」
取り繕って大きなサワーチェリーにフォークを突き立てた。シンが笑う。意地悪な小学生みたいに。この表情を独り占めできているという事実は、少なからず神楽の気持ちの高揚を促していた。
食後のコーヒーまで堪能し、二人は店を出た。シンはいつの間にか会計を済ませていた。これも約束通りだ。他愛ない話をしながら駅の改札前まで二人で歩いた。神楽がここで振り返る。
「ここで。二駅だから」
「駅から近いんだっけ」
「歩いて五分かからないから」
「じゃあ大丈夫か。ここのところ変なのが多いから気を付けて」
例を挙げると痴漢常習スプラウトだとか、露出狂スプラウトだとか、とにかく春めきまくった連中だ。思い出してもげんなりする。それを見透かして、神楽が小さく笑った。
「今日はありがとう、きちんと話が聞けて良かった。また──」
口をついて出かけた言葉に、神楽ははっとしてそれを飲み込んだ。
「電話するよ」
飲み込んだはずの言葉の続きを、シンが口にした。この男は欲しい言葉をさらりと口にする。それが社交辞令でないことは神楽にも分かった。何かの勝負に敗北を期したように肩を落として嘆息すると、神楽は少し赤らんだ顔のまま手を振って自動改札を通り抜けた。
ふと視線を落とした時計は午後九時を指している。電車を待つ人も乗る人もまばらだった。空席が目につくが、神楽は出口付近のつり革に掴まった。それから何となく周囲を見渡すと、思い直して長椅子の真ん中に腰を下ろす。シンが南藤和で立て続けにセイブしたスプラウトが、痴漢だの露出狂だのと聞かされれば短い帰路にもそれなりに警戒心がわいた。とはいえこの時間帯の乗客は、仕事に疲れて舟をこぐサラリーマンかイヤホンを装備してモバイルをいじり続ける若者に二分される。他人に干渉する元気と余裕のある乗客などは皆無だ。
神楽はバッグから自分のモバイルを取り出し、メール作成画面に切り替えた。「今日はありがとう」と打って静止していると、電車が速度を緩め始めたことに気づく。バックスペースを連打して席を立った。シンへのお礼なら別れ際に言った。そのすぐ後にメールを送るのも、なんだかわざとらしい気がした。
いつものホームに降り、通りなれた改札を抜け、歩道橋の階段を二三歩上がったときだった。右腕に激しい痛みが走り、神楽は持っていたバッグを落とした。何だろう──コートが切れて、中に着ているワンピースの生地が顔を出している。更に言えば、その下の肌には赤い血が一直線に走っていた。心臓が、一度大きく脈打った。背後に男がいる。夜の闇に溶け込むように全身黒い、その中で手に持っている包丁は異彩を放っていた。男は野球のピッチャーのようにゆっくりとその手を振りかぶった。